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ケン・ローチとカンヌ映画祭2017/02/10 UP

ケン・ローチとカンヌ映画祭

 昨年のカンヌ映画祭で『わたしは、ダニエル・ブレイク』がパルム・ドールを受賞したのは、私にとっては二重に嬉しい驚きだった。ケン・ローチがまたカンヌに登場し、彼の新作が見られることが何よりも嬉しかったし、そのうえ最高賞を受賞したのだから。というのも、『ジミー、野を駆ける伝説』が出品された2014年のカンヌで、ケン・ローチは引退宣言ともとれる発言をしていたからだ。

 ローチが初めてカンヌに登場したのは1972年の『家庭生活』で、このときはコンペティション部門ではなく監督週間だった。監督週間というのは、69年にフランス映画監督協会が設立した非オフィシャル部門だ。ヌーヴェル・ヴァーグ全盛期の当時は、各国を代表する、いわゆる“よく出来た”作品が並ぶコンペには、そうした新しい作家の斬新な作品はなかなか選ばれなかった。そんなカンヌへの不満が元になって、68年にゴダールやトリュフォーらによって映画祭が開催中止に追い込まれるという事態が起きた。その流れを受けて翌年誕生したのが監督週間で、作家性を重視した映画を紹介するという原点は今も変わっていない。

 私がローチを初めて見たのは90年のカンヌで、『ブラック・アジェンダ/隠された真相』の記者会見だった。81年に『まなざしと微笑み』でコンペに初登場して以来、2本目のコンペ作品で、温かくて人間味があるが、頑固そうな彼の人柄に、私はすっかり魅了された。

 91年に監督週間に『リフ・ラフ』(私が初めてローチ作品の字幕を担当した忘れられない作品でもある)を出品した後、コンペに戻って93年に『レイニング・ストーンズ』で2度目の審査員賞を受賞したものの、95年『大地と自由』から02年の『SWEET SIXTEEN』まで無冠が続く。この間、作品の素晴らしさは広く認められ、94年にはヴェネチア映画祭名誉金獅子賞、03年には日本の高松宮殿下記念世界文化賞受賞と、世界的な巨匠となったものの、映画祭的には、なかなか大きな賞に恵まれない状態が続いた。

 映画祭とは不思議なもので、巨匠になればなるほど賞から遠ざかる。特に作家性の強い、小粒な映画にその傾向が強い。なかなか大賞が獲れないジョージア(旧グルジア)の巨匠オタール・イオセリアーニなど、“私の映画は審査員大賞止まり”と自嘲気味に嘆いているほど。私もローチは大賞が獲れないタイプの作家なのではないかと思っていた。

 それが杞憂だと分かったのが、アイルランド独立をめぐる兄弟の悲劇を描いた06年の『麦の穂をゆらす風』だった。ローチにパルム・ドールを授けたのはウォン・カーウァイ審査員長と、ヘレナ・ボナム=カーター、モニカ・ベルッチら。ウォン・カーウァイがローチのファンだったとは思いもよらなかったが、これには本当にびっくりした。いったい何が起きたのだろうか。

 私に言えるのは、変わったのはローチではなく、カンヌの方だということ。ローチは一貫して、社会的弱者、虐げられた者たちのために映画を撮り続けてきた。『まなざしと微笑み』から四半世紀、映画祭自体も時代に合わせて進化してきたのだ。

 『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、心臓を悪くして医者から働くことを止められた大工のダニエル・ブレイクと、2人の子供を抱えて苦労するシングルマザーのケイティが主人公。慎ましくも幸せに暮らしてきた彼らが、病気や離婚、子育てといった、誰にでも起こりうる要因で貧窮のどん底に追いやられる。福祉制度は機能せず、官僚的なシステムの編み目からこぼれ落ちた彼らを救うことが出来ない。ダニエルやケイティを見るローチの目は優しく温かいが、映画に込められた彼らの行き場のない叫びは強烈に苦い。しかし、この苦さこそ、引退宣言をしたローチに再びメガホンを取らせることになった怒りのエネルギーの結晶なのだろう。

 こうしてパルム・ドールを手にしたローチは、ビレ・アウグスト、ダルデンヌ兄弟、ミヒャエル・ハネケ、今村昌平らと並ぶ、ダブル受賞者組の一員となった。けれどもローチは決して喜んでいなかった。授賞式の壇上で、右手の拳を高く突き上げたローチは、ダニエルやケイティたちのために怒り続けていた。

斎藤敦子

ライター 斎藤敦子

映画評論家。パリで映画編集を学ぶ。フランス映画社宣伝部勤務を経てフリー。「サウルの息子」、「スポットライト 世紀のスクープ」などの字幕翻訳、「ピアノ・レッスン」(新潮文庫)「奇跡の海」(幻冬舎文庫)「パリ快楽都市の誘惑」(清流出版)などの翻訳書も。

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