映画の処方箋

Vol.126

『I am Sam アイ・アム・サム』

親子のあり方を考えさせる知的な映画

親子の繋がりは人間関係の基本で、映画にも傑作が多い。ジェシー・ネルソンの『アイ・アム・サム』もそんな1本だ。私は愛と感動と涙を売りものにした映画が苦手で、この作品も最初は敬遠していたのだが(ショーン・ペンの熱演という噂もマイナスに働いた)、実際に見て、食わず嫌いを多いに反省した。家族と過ごすことの多い、年の初めに見るのに最適の真の感動作である。

サム(ショーン・ペン)は知的障害者で、スターバックスでフロア係として働きながら、幼い娘ルーシー(ダコタ・ファニング)を育てている。子育ては大変だが、親切な元ピアニストの女性(ダイアン・ウィースト)や障害者の仲間たちに囲まれて、幸せに暮らしてきた。が、ルーシーが成長し、サムの知能を追い越そうとする頃、ある偶然からソーシャルワーカーに目をつけられ、養育能力がないと判断されてルーシーを取り上げられてしまう。サムは電話帳の広告で“絶対に負けない”という辣腕弁護士リタ(ミッシェル・ファイファー)を見つけ、裁判の弁護を依頼する。初めは取り合わなかったリタだが、同僚の前で見栄を張り、“無料で引き受ける”と言ってしまう。こうして愛娘を取り戻すためのサムの闘いが始まるのだが…。

ハリウッド映画の多くは善悪の対立でストーリーが展開する(そして常に善が勝利を収めて終わる)。が、この映画は違う。一見、サム(善)と検事&ソーシャルワーカー(悪)の対立が軸になっているように見えるが実はそうではない。知的障害者だが娘に対する愛情は誰にも負けないサムの対極にいるのは実はエリート弁護士のリタである。リタは豪華なオフィスを持ち、美術館のような家に住んでいるが、夫とは不仲で、息子はいつも独りぼっちだ。この二人が組んで裁判を闘うことになるのが映画の主眼で、裁判で勝つことではないのだ。実際、裁判の相手ターナー検事(見事に抑制された演技のリチャード・シフ)は、サムの敵ではなく、ルーシーの将来を案じているだけであり、ルーシーの養母となるランディ(ローラ・ダーン)もルーシーに限りない愛情を注ぐ理想の母親である。リタが、娘への愛しか武器を持たないサムと接することで、世間体やエリート意識といった鎧を脱ぎ捨て、母親としての自分を取り戻していく。対極にいる二人が同じ側に立つことで生まれるもの、それがこの映画の見どころである。ストーリーが進むにつれ、主人公が知的障害者であることはハンデではなく、サムという人間のキャラクターの1つのように思えてくる。

監督のジェシー・ネルソンと脚本のクリスティン・ジョンソンは、ストーリーを作る前に知的障害者の施設に通い、実際に彼らと接してアイデアを膨らませていった。ショーン・ペンも施設で作業を手伝いながら、彼らのしぐさを学んだという。この映画が素晴らしいのは、そうした作り手側の誠実なアプローチから生まれた、ウソのない表現にある。私が好きなのは、説明的な描写を廃して、登場人物の心の動きをストーリーとして紡いでいるところで、この手法はインディーズ映画に近い。説明を補足する意味でビートルズのカバー曲が使われている。カバーを使ったのはビートルズの楽曲使用料が高く、映画の製作費と同じくらい掛かってしまうからだそうだが、それぞれのアーティストの声と場面がうまくマッチして、いい効果を上げている。

この映画のもう1つの見どころは、もちろんショーン・ペンとダコタ・ファニングという二人の天才の演技で、凄すぎて言葉もないほどだ。ショーン・ペンはこの演技でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたものの(3度目)、受賞を逸したことがウソのようだ。デンゼル・ワシントンが『マルコムX』や『ザ・ハリケーン』で取れず、結局『トレーニング・デイ』で初受賞したのと似ているかもしれない。

『アイ・アム・サム』のラストを見て、昨年話題になった是枝裕和の『そして父になる』を連想した。『そして父になる』はエリートサラリーマンの福山雅治が子供の取り違え事件を通じて本当の親子関係を紡ぎ直す物語だったが、是枝裕和が到達した結論とジェシー・ネルソンが到達した結論がとても似通っていたことは、意外というより、考えさせられる。洋の東西を問わず、幸せな親子関係とは親子愛の質ではなく、もっと大きな愛で家族を作り上げていくことなのかもしれない。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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