映画の処方箋

Vol.030

『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』

見る前に押さえておくべき鑑賞のコツ。

5月といえばカンヌ映画祭。カンヌといえばコートダジュール。コートダジュールといえば燦燦と照りつける初夏の太陽、ハーブの香りのする南仏の風と紺碧の海。なんとなくフランスっぽい気分に浸りたくなるこの季節にお薦めなのがオリヴィエ・ダアンの『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』だ。

 エディット・ピアフといえばフランスで最も有名な歌手。日本で匹敵するのは美空ひばりだろうか。ピアフというのはフランス語で雀の意味なので、日仏を代表する国民的歌手の芸名が鳥の名前だというのは運命的な符合である。ピアフの生涯は生前から伝説化していて、謎も多く、それだけドラマチックだった。これまでもギイ・カザリルが1974年に前半生を『愛の賛歌』として、クロード・ルルーシュが1983年にマルセル・セルダンとの恋愛を中心に『恋に生きた女ピアフ』として映画化している。今回のオリヴィエ・ダアン版は、オールスターキャストで描いたピアフ伝の集大成といった趣。1959年のニューヨーク公演から始まり、フラッシュバックでピアフの生涯を随時挿入するという複雑な構成で、それは名曲誕生の背景に焦点を当て、事情に通じたフランス人をうならせるように作られているからなのだが、ややもすると日本人には何が何だかわからない、ということになる。ゆえに、映画を見る前に押さえるべきところを押さえておこう。

鑑賞のコツ<その1>
 冒頭は、1959年2月のニューヨーク公演。体力のなくなってきたピアフが舞台上で失神し、聖テレーズに復活を祈る場面である。ピアフは第二次大戦直後の1947年に初のアメリカ公演を行い、フランス語というハンディにもかかわらず、大人気となり、その後何度もアメリカ公演を行った。アメリカではマレーネ・ディートリッヒと知り合い、友情も生まれた。映画にはアメリカで“ミロール”を録音する場面も出てくる。ピアフの演技でアカデミー賞主演女優賞を獲得したマリオン・コティアールの身長は169センチ。その彼女がどうやって142センチまで背を低くしたのか、映像のマジックにも注目だ。

鑑賞のコツ<その2>
 エディット・ピアフは1915年にパリの下町ベルヴィルで生まれた。本名はエディット・ジョヴァンナ・ガション。母親は歌手、父親は大道芸人だった。道ばたで生まれたという伝説があるが、これは嘘らしい。そのため、ダアン版では誕生場面は描かれていない。父親は第一次大戦に出征する際、幼いピアフをノルマンディーで売春宿を経営している母親に預けた。したがってピアフは売春婦(エマニュエル・セニエ演じるティティーヌら)に母親代わりに育てられた。3歳のとき栄養失調で角膜炎になり、7歳のときまで目が見えなかった。娼婦が聖テレーズに祈ったおかげで視力が回復したという伝説がある。以来、聖テレーズは生涯ピアフの守り神になった。

鑑賞のコツ<その3>
 大道芸人の父親の手伝いをしていた少女ピアフは、その延長として道ばたで歌い始める。今で言うストリート・ミュージシャンだ。彼女の才能を見抜いたのはナイトクラブ“ジェルニーズ”のオーナー、ルイ・ルプレ(ジェラール・ドパルデュー)だった。ピアフという芸名を決めたのがルプレで、フランス語題名“ラ・モーム(娘っ子)”は、“ラ・モーム・ピアフ(雀っ子)”という彼女の愛称から取られている。ピアフの運命を変えたルプレは、その後まもなく殺された。このとき、ピアフも一時共犯の疑いをかけられている。

鑑賞のコツ<その4>
 ピアフは恋多き女性だった。シャルル・アズナブール、イヴ・モンタンら若き才能を次々発掘し、デビューさせた。特に有名なのはボクサーでミドル級世界チャンピオンのマルセル・セルダンとの大恋愛だった。だが、1949年、“レイジング・ブル”ことジェイク・ラモッタとの再戦に向かう飛行機が落ちて亡くなってしまう。これは、ニューヨーク滞在中のピアフに早く会おうと、セルダンが船の予定を飛行機に変えたために遭遇した事故だった。彼女にセルダン事故死を伝える役を引き受けたのはディートリッヒだった。

鑑賞のコツ<その5>
 映画の副題にも使われているピアフの最も有名な歌“愛の賛歌”は、セルダンとの恋愛中に書かれたと言われている。二人は相思相愛だったが、妻子あるセルダンとは不倫関係にあった。日本では越路吹雪が歌った岩谷時子訳で知られているが、本当の内容は“あなたのためなら祖国も友人も裏切る、盗みもする。あなたが死ねば私も死ぬ”というピアフの恋情の深さを思わせる強烈な内容である。

 薬物中毒と酒とリウマチでボロボロになったピアフは、死の1年前にパリのオランピア劇場で最後のコンサートを行った。映画の最後で“水に流して”(フランス語の直訳では“いいえ、私は何も後悔しない”)を歌う場面だ。このときの録音が残されているが、息を切らし、休みを挟みながら、観客の声援に支えられてまた歌う、という文字通りの絶唱だった。

 エディット・ピアフは1963年10月10日南仏のグラースで亡くなった。お墓は、生まれた場所ベルヴィルからさほど遠くない、パリのペール・ラシェーズ墓地にある。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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