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何気なく観ていたアノ映画も、知れば「なるほど!」映画評論家 斎藤敦子が
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『リンカーン』2017/02/24 UP 放送日時

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娯楽映画の巨匠がスリリングに描く歴史の瞬間

 エイブラハム・リンカーンは奴隷解放と南北戦争の危機を乗り越え、歴代アメリカ大統領の中で最も偉大とされる偉人である。彼の生涯と数々の名演説、悲劇的な暗殺事件、それにリンカーン記念堂の石像まで含めると、何度映画に登場したか分からないアイドル的存在でもある。それだけ“手垢”がついたリンカーン像に、世界で一番有能な娯楽映画監督スピルバーグが挑戦したのが『リンカーン』で、2012年度のアカデミー賞12部門にノミネートされ、主演男優賞と美術賞を獲得した。

 スピルバーグが焦点を当てたのは、リンカーンの人生全般ではない。再選を果たしたリンカーンが、奴隷制度の撤廃を定めた憲法修正13条を議会に認めさせるまでの戦いという、今まであまり触れられなかった歴史の裏側だ。

 物語は1864年、ジェンキンスフェリーの戦いの後、北軍の黒人兵士が、慰問に来たリンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)の前で、ゲティスバーグ演説(“人民の、人民による、人民のための政治”で有名)を暗唱してみせるところから始まる。翌1865年1月、南北戦争が北軍の勝利に傾きつつある中、リンカーンは奴隷解放を確実にするため、憲法修正13条を議会で成立させようとしていた。だが、与党の共和党が全員賛成しても、民主党議員20名が賛成に回らないと可決しない。リンカーンはスワード国務長官(デヴィッド・ストラザーン)や長老ブレア議員(ハル・ホルブルック)らと多数派工作を図る一方、密かにロビイストのビルボ(ジェームズ・スペイダー)に民主党議員を買収させようとする。だが、共和党にも修正案を生ぬるいと批判する急進派のスティーヴンス議員(トミー・リー・ジョーンズ)がいた。同じ頃、南部連合から停戦交渉のための使節団がやってくる。停戦が成立してしまうと、奴隷解放こそ戦争終結の早道というリンカーンの主張は崩れてしまう。奴隷解放が先か、戦争の犠牲者をこれ以上出さない方が先か、リンカーンは究極の選択を迫られる。

 娯楽映画の巨匠の手にかかれば、歴史もこれほど面白くなる、という好例だ。議会での討論、買収工作、南部の使節団との交渉、ちょっと聞くとあまり面白くなさそうな史実だが、日を追うごとに修正案が可決されるかどうかのスリルがどんどん高まっていき(結果は明らかなのに)手に汗握ってしまう。

 実はスピルバーグが最初に映画化を企画したときの脚本は、リンカーンの人生をたどる、普通の伝記映画だったという。それが気に入らず、<エンジェルス・イン・アメリカ>の戯曲でピュリッツァー賞を受賞した劇作家トニー・クシュナーに改めて依頼。彼が書いた500ページにも及ぶ脚本の一部だった1865年の憲法修正13条をめぐる攻防を1本の映画に仕立てたという。さすがスピルバーグ、何が映画を面白くするのかをよく知っている。偉人の伝記というと、“政治的に正しい”教科書的な映画を連想するが、裏工作も辞さないリンカーンの政治家としての狡猾な一面を暴露しつつ、歴史の危うい瞬間をスリルたっぷりの娯楽に仕立ててしまった。

 見どころは、とことん本物を追求した重厚な語り口にある。1シーン1シーンが名画のように美しく、エキストラの隅々に至るまで神経の行き届いた熱演で、特に下院での討論の場面は、まるで議場全体が魂を持って動いているかのよう。議長の前にさりげなく置かれた書類やメモに至るまで本物を忠実にコピーしたというから恐れ入る。必見は1年かけて、あらゆる資料を読み込み、リンカーンになる準備をしたという天才俳優ダニエル・デイ=ルイスの、まるで本人がそこにいるかのような自然な存在感だ。3度目のオスカーも納得の素晴らしさである。

斎藤敦子

ライター 斎藤敦子

映画評論家。パリで映画編集を学ぶ。フランス映画社宣伝部勤務を経てフリー。「サウルの息子」、「スポットライト 世紀のスクープ」などの字幕翻訳、「ピアノ・レッスン」(新潮文庫)「奇跡の海」(幻冬舎文庫)「パリ快楽都市の誘惑」(清流出版)などの翻訳書も。

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