映画の処方箋

Vol.081

『羊たちの沈黙』

サスペンス映画の方向を変えた傑作

『羊たちの沈黙』を初めて試写室で見たときのことを今でもはっきり覚えている。ヴァージニア州クワンティコの森が映し出されたファースト・カットで、これは傑作だと確信したのだが、その期待は裏切られなかった。その後、アカデミー賞主要5部門を受賞するという、サイコ・サスペンス映画としては異例の大成功を収めたばかりでなく、アンソニー・ホプキンス演じるレクター博士という特異なキャラクターが、その後のこの種の映画の方向をすべて変えてしまった。まさにエポック・メイキングな傑作である。

映画は、クワンティコの森で訓練中のクラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)がクロフォード捜査官(スコット・グレン)に呼び出されるところから始まる。行動分析課の主任であるクロフォードは、現在、女性を誘拐し、殺害して皮を剥ぐことからバッファロー・ビルと呼ばれる連続殺人鬼を追っていて、ヴァージニア大学で自分のゼミの学生だったクラリスに、監禁中の連続殺人犯ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)に接触させ、事件解明に協力させようとする。人を殺してその肉を食べる嗜好があるゆえに“ハンニバル・ザ・カニバル”(人食いハンニバル)と異名をとるレクターは、高度な知能を持つ元精神分析医。9人を殺害して逮捕・有罪となり、今はドクター・チルトン(アンソニー・ヒールド)が所長を務めるボルティモア精神異常犯罪者診療所の監禁病棟で厳重に監視されている。若く美しく聡明なクラリスに興味を持ったレクターは、彼女の個人的な情報を教えることを条件に、バッファロー・ビル事件の犯人を特定するヒントを与えようとクラリスに申し出る。

原作はトマス・ハリスの同名小説。ジャーナリスト出身のトマス・ハリスは1960年代からアメリカ社会を震撼させてきた殺人鬼を取材し、自作に取り入れた。<羊たちの沈黙>に登場する連続殺人犯ジェイミー・ガム、通称バッファロー・ビルは、アメリカの犯罪史上最も有名な殺人鬼で、遺体を解体して家具にしたり、皮を剥いで服を作ったといった猟奇的な行為で知られるエド・ゲイン、少なくとも30人以上の女性を誘拐、暴行殺害し、“シリアルキラー”という言葉を生んだテッド・バンディ、自宅の地下室に女性を監禁、虐待したゲイリー・ハイドニックといった犯罪者を合体したものだ。一方、FBI捜査官のモデルになったのは、FBI行動分析課のプロファイラーで、前述のエド・ゲインやチャールズ・マンソンといった殺人犯の心理分析を行ったロバート・K・レスラーたちである。映画『羊たちの沈黙』では、撮影時、実際にFBI行動分析課の責任者だった特別捜査官ジョン・ダグラスがスコット・グレンの演技指導を行った他、クラリスがアカデミーで講義を受けている場面に講師役で特別出演している。

『羊たちの沈黙』は、女性捜査官のリクルートに有利と判断したFBIの全面的な協力により、施設内での撮影を行っている。クロフォードに呼ばれたクラリスが通り抜ける銃の手入れをしている部屋や、アカデミーで訓練を受けている場面は、実際にクワンティコのFBI本部で撮影されたものだ。ただし、クロフォードの執務室は本物そっくりに作られたセットである。

映画の見どころは、もちろんアンソニー・ホプキンス演じるレクター博士とジョディ・フォスター演じるクラリス・スターリングとの対決だが、忘れてはならないのはジョナサン・デミの丁寧で行き届いた演出である。責めのレクターと守りのクラリスの対決をアップで重ねて行く場面の緊張感と迫力のすばらしさ(撮影は日系2世のタク・フジモト)。ジョディ・フォスターは、聡明で勇敢な女性捜査官だが、男に比べれば非力で、しかもまだアカデミー実習生というクラリスを見事に演じているが、演出でも彼女の弱さをきちんとフォローしている。例えばFBIアカデミーで、背の高い男の実習生に囲まれてエレベーターに乗る場面、検視に訪れた葬儀屋で、男ばかりの警察官に囲まれる場面などは、現場でのクラリスの孤独、女性の弱さを映像で見せることで演技を助けているのだ。特にすばらしいのは、クラリスが射撃の訓練を行ったり、突入訓練で失敗する場面で、ここで彼女の未熟さを観客に見せておくことがクライマックスのサスペンスを盛り上げる伏線になっている。1カットも見逃せない、1コマもまばたきできない、真の傑作である。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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