映画の処方箋

Vol.074

『パルプ・フィクション』

タランティーノ映画の“悪文”を楽しむ。

クエンティン・タランティーノほど衝撃的な登場をした映画監督はいないだろう。私が彼の映画を初めて見たのは1992年のカンヌ映画祭でコンペ外招待作品として『レザボア・ドッグス』が上映されたときだった。サンダンス映画祭での評判をひっさげてカンヌに乗り込んできたものの、ヨーロッパのプレスの反応は鈍く、彼の“ゴッドファーザー”モンテ・ヘルマンを従えての記者会見だったのに、全部で十数人くらいしか記者が集まらなかった。

だが、その後の活躍はめざましかった。まずは『レザボア・ドッグス』が世界中で話題になり、ほぼ同時に『トゥルー・ロマンス』をトニー・スコットが、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』をオリヴァー・ストーンが監督、それぞれ大ヒットとなり、たちまち世界の映画界をタランティーノ色で染めてしまった。1994年に監督2作目の『パルプ・フィクション』がカンヌでパルム・ドールを獲ったときには、2年前には閑散としていた記者会見場が立錐の余地のないほど人で溢れて、その鮮やかな出世ぶりに目が眩むような思いがしたものだった。

『パルプ・フィクション』は、『レザボア・ドッグス』と並ぶタランティーノの出世作であるのと同時に、その後のタランティーノの方向性を決めた作品でもある。題名の“パルプ・フィクション”とは、50年代にアメリカでよく読まれていたパルプ・マガジン(大衆小説雑誌)に掲載された小説のこと。安っぽい三流小説といった意味で、映画で言えばB級映画にあたる。三流小説もB級映画も大衆に消費される娯楽作品であって、作家はテーマの重要性より、スタイルやディテールにこだわりを持つ。

『パルプ・フィクション』には平行して語られる2つのストーリーがある。1つは、マフィアの殺し屋のヴィンセント(ジョン・トラヴォルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が、ボスのマーセルスを裏切った青年たちから黒いスーツケースを取り戻しに行き、面倒に巻き込まれる、というストーリー。もう1つは、マーセルスから八百長を持ちかけられた落ち目のボクサー、ブッチ(ブルース・ウィリス)がマーセルスを裏切って、大金をせしめて逃げようとする、というストーリーである。けれどもタランティーノは、『パルプ・フィクション』を2つのストーリーとは一見何の関係もない、パンプキン(ティム・ロス)とハニー・バニー(アマンダ・プラマー)のファミレス強盗から始めている。それぞれの出来事が時系列の順番に並んでいないので、この話がどこにつながるのかは最後まで見ないとわからない。タランティーノの真骨頂はストーリーをわかりやすく語ることではなく、そのときどきで持ち上がる突拍子もない出来事をいかに面白く語るかにあるからだ。

その証拠に、『パルプ・フィクション』で最も有名なのは、ヴィンセントとジュールスが長々とハンバーガー談義をするシーンや、ユマ・サーマンとジョン・トラヴォルタがツイストを踊るシーンなど、どれもストーリーとは全く関係ないところである。特に父親の戦友というクーンツ大尉(クリストファー・ウォーケン)が少年時代のブッチに金時計を手渡す回想シーンや、誤って殺した死体を片付けるために掃除屋ミスター・ウルフ(ハーヴェイ・カイテル)が呼ばれるシーンは、普通の監督ならば本筋と関係ないから無駄だと切り捨ててしまうところだろうが、タランティーノにしか描けないキッチュな楽しさがあって、実はそこが映画の見所だったりする。

小説家チャールズ・ブコウスキーは遺作<パルプ>を“悪文”に捧げている。パルプ小説の安出来な面白さと“悪文”とは切っても切れない縁があるからだろう。とすれば、タランティーノの映画が、映画の話法上“悪文”になるのは当然の帰結かもしれない。といっても、最近のタランティーノの『グラインドハウス』物に見られる悪ノリ気味に進化した“悪文”に比べたら、『パルプ・フィクション』の悪文は“名文”といっていいくらい洗練されているし、製作から20年近く経って、クラシックな風格さえ出て来たように感じられる。これは一級の名作の証拠ではないかと私は思う。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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