映画の処方箋

Vol.071

『Dr・パルナサスの鏡』

テリー・ギリアムの幻想館で、イマジネーションの迷路に迷う。

ロンドンの夜の街に突然現れた移動見せ物小屋“パルナサス博士の幻想館”。たった5ポンド(約600円)払えば、不思議ワールドを体験できるという。とはいえ、怪しげな見せ物にお客はなかなか寄りつかない。一座のメンバーは、老パルナサス博士(クリストファー・プラマー)、弟子のアントン(アンドリュー・ガーフィールド)、小人のパーシー(ヴァーン・トロイヤー)と博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)。実は、博士は千年以上も昔、永遠の命と若さと引き替えに、生まれてくる子が16歳になったら差し出すという契約を悪魔と交わしていたのだった。美しく成長したヴァレンティナはあと数日で16歳の誕生日を迎える。そんなとき、どこからともなく現れた悪魔のミスター・ニック(トム・ウェイツ)に、博士は新たな賭けを持ちかける。もし幻想館が5つの魂を魅了できれば、ヴァレンティナを奪わないでくれと。一方、アントンとヴァレンティナは、橋の下で首を吊られ、記憶をなくした男トニー(ヒース・レジャー)を助ける。ハンサムなトニーのおかげで幻想館に女性客が集まってくる。トニーを追いかけてきた怪しげなロシア・マフィアの男達も。果たしてパルナサス博士は5つの魂を魅了し、悪魔との賭けに勝つことが出来るだろうか。

『Dr.パルナサスの鏡』は、以上のような、とってもすっきりしたストーリーの映画なのだが、見ている間は、まるで博士の幻想館の迷路に迷い込んでしまったような、出口の見えない不安な気分になる。それは、テリー・ギリアムがストーリーを前に進めていくことより、その場その場で物語が喚起するイメージをふくらませていくこと、“道草をくう”ことを楽しんでいるからである。また、ヒース・レジャーの不慮の死によって、彼のパートが3人の俳優によって演じ分けられることになり、トニーという人物の輪郭が曖昧になったことにも原因がある。でも、このことは実は映画のマイナスにはなっていない。むしろ豊かな味付けになっていると私は思う。その3人というのが、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルという当代きってのトップ俳優、しかもそれぞれ違った魅力を持つスター達なのだから、なおさらだ。

私がヒース・レジャーを最後に見たのは、2007年のヴェネチア映画祭で『アイム・ノット・ゼア』が審査員特別賞と女優賞を獲ったとき、長めの短パンというラフなスタイルで授賞式の壇上に現れ、トッド・ヘインズとケイト・ブランシェットの代理で賞を受けていた。自分が獲ったわけでもないのに、わざわざ戻って来るなんて、いい奴なんだな、と思ったことを覚えている。まさか、その4か月後に亡くなってしまうとは、彼自身も含めて、あのときは誰も思わなかった。

ギリアムのように、規模の大きい映画を作る人は、映画製作上の困難に見舞われやすい。セルバンテスの<ドン・キホーテ>を映画化しようとして次々に厄災に見舞われ、ついには製作中止に陥る顛末は『ロスト・イン・ラ・マンチャ』に活写されているけれども、今度は撮影途中で主演俳優が亡くなってしまうのだから、つくづくついてない人である。けれども、見事、完成に至った『Dr.パルナサスの鏡』には、彼の運のなさではなくて、苦境を救いに駆けつけたジョニー・デップらの友情に恵まれた、彼の人間的な魅力と、想像力のたくましさが見てとれる。

トニーがタロット・カードの絵にある“首吊り男”として登場するように、この映画には様々なシンボルが散りばめられている。それがストーリーにどんな意味を加えているのか、はっきりいって私にはわからない。が、映像の中にびっしりと、装飾のように描き込まれたイマジネーションの豊かさを味わいたいと思う。お化け屋敷の目的は、出口に行きつくことではなく、その道程を楽しむことにある。道程が長く、仕掛けられた“脅し”が凝っていればいるほど怖くて楽しい。テリー・ギリアムの幻想館の楽しみ方も、お化け屋敷とまったく同じである。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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