映画の処方箋

Vol.065

『迷子の警察音楽隊』

音楽と真心は世界の共通語。

山岳遭難で最も多い原因は道迷いであるという。山で迷ったときの鉄則は、わかるところまで引き返すこと、むやみに動き回らないことの2つである。エラン・コリリンの『迷子の警察音楽隊』は、イスラエルの砂漠のどこかの小さな町で迷子になったエジプトの警察音楽隊を描いた作品だが、彼らもまた、この鉄則を守って、むやみに動き回るのをやめ(動きようにもバスの便がなかったからだが)名も知らぬ町で一夜を過ごす。映画は、その夜の顛末を描いた、しみじみ可笑しいコメディである。

音楽隊の“遭難”は、ふとした手違いから起こった。イスラエルの空港に迎えが来ていなかったこと、確認のために電話した役所で話が通じなかったことだ。団長のトゥフィーク中佐(サッソン・ガーベイ)は、いつでも自分達でなんとかやってきたと、自力で現地に向かうことを決意、隊で一番の色男カーレド(サーレフ・バクリ)にバスの切符を買ってくるよう命じる。ところが、彼が切符売り場の窓口の美人に鼻の下を伸ばしたおかげで、アラブ文化センターの開所式が行われるペタハ・ハティクヴァではなく、まったく関係のないベイト・ハティクヴァ行きの切符を買ってしまい、どこだかわからない砂漠の町へ迷い込んでしまう。

映画のテーマは、ざっくり言えばエジプトとイスラエルとの異文化交流である。アラブ人とユダヤ人は大昔から軋轢を繰り返してきた、仲がいいとは決していえない民族同士である。セシル・B・デミルの『十戒』で、チャールトン・ヘストン演じるモーゼが、ユル・ブリンナー演じるファラオの迫害を逃れたユダヤの民を率いて、紅海を分けてエジプトから約束の地へと導く物語は、なんと旧約聖書の出来事だ。それから幾世紀。近代に入ってもなお、特に1948年のイスラエル建国以降、エジプトを始めとするアラブ諸国とイスラエルは何度も戦争を起こしつつ今に至っていて、旧約聖書の時代よりもずっと軋轢が深まっているように思われる。領土がやり玉になると、国と国との間がどんなにこじれるかは、竹島問題や北方領土問題を抱える日本も例外ではない。けれども、国という枠組みを外し、いろんな建前を脱ぎ捨てれば、どんな人種であろうと何の変わりもない、一人の裸の人間であり、そこに和解と連帯の糸口がある。コリリンは、そんな不変の論理を鮮やかに描き出して見せる。

映画の中心になるのは、迷子の警察音楽隊に救いの手をさしのべるカフェの女主人ディナ(ロニ・エルカベッツ)である。女盛りの美人で、口は悪いが心は広く、トゥフィークとカーレドを家に泊めようと申し出てくれたうえ、他の隊員達の宿泊先も世話してくれる。どうやら訳ありの過去を持つ彼女は、トゥフィークに目をつけ、しきりにモーションをかけるのだが、こちらも訳ありの過去を持つトゥフィークは、彼女からの誘いの視線を知ってか知らずか、なかなかその気にならない。この辺の触れあいそうで触れあわない、微妙な感じが、この映画が狙う“ユーモア”である。

特に面白かったのは、この町唯一の社交場らしい夜のローラースケート場で、童貞らしい青年に女たらしのカーレドがナンパの手ほどきをする場面の微妙な雰囲気だ。どこかで同じような空気感の映画を見たことがあると記憶をたぐって出て来たのがコーエン兄弟『ビッグ・リボウスキ』のボーリング場の、あの時代から取り残された、間抜けな男達の集う間抜けな空間だった。それは、よりにもよって奥さんの誕生パーティのお邪魔虫になってしまった隊員達が、さらには目の前で繰り広げられる夫婦喧嘩に立ち会わざるをえなくなる。そんな、気まずい居心地の悪さにも通じる。

しかし、そんな彼らの運の悪さに同情はしても、その様を笑う気にはなれないから、この映画をストレートに“コメディ”と呼ぶのに、ややためらいを感じるところなのだが、一歩引いて、その場を眺めてみると、多かれ少なかれ誰にでも経験がある、万国共通の人間喜劇に見えてくるはずである。そこで何かの解決策が示されて、突然その場が和やかになったり、アラブ人とイスラエル人が仲良く友達になったりといった“奇跡”が起こらないところに、私はコリリンの誠実さを感じる。エジプト人はアラビア語、イスラエル人はヘブライ語で会話し、共通の言葉はつたない英語というところも、素朴で真摯な雰囲気を倍増させている。

もっと見る

ライター 斎藤敦子のプロフィール

前へ次へ

HOMEへ戻る