映画の処方箋

Vol.050

『スラムドッグ$ミリオネア』

アカデミー賞で証明されたダニー・ボイルの映像感覚

今年のアカデミー賞で、作品、主演男優、編集、作曲の4部門にノミネートされたのがダニー・ボイルの新作『127時間』だ。原作は<アーロン・ラルストン奇跡の6日間>(小学館刊)。2003年4月、ユタ州ブルージョン・キャニオンを単独で登山していたラルストンは、落石に右腕を挟まれ、身動きがとれなくなってしまう。そのままでは死ぬしかない絶体絶命の窮地を、冷静かつ壮絶な判断によって奇跡的に脱出、生還したという実話の映画化である。

岩に挟まれ、動けないクライマー(ジェームズ・フランコ)の127時間をそのまま描いたら、退屈な映画になってしまうだろう。美しい山の景色はもとより、フラッシュバックを使って回想を挟むなどして、観客を飽きさせない工夫が必要だ。監督のダニー・ボイルは(この作品では惜しくも監督賞ノミネートを逃したが)、シャープな映像感覚と編集テクニックに関しては実績がある。その最も見事な結実が、2008年にアカデミー賞監督賞他8部門を独占した『スラムドッグ$ミリオネア』だ。

 原作はヴィカス・スワラップの<ぼくと1ルピーの神様>(ランダムハウス講談社刊)で、原題は“Q&A”という。日本でもお馴染みのテレビ番組「クイズ・ミリオネア」で全問正解し、10億ルピーという史上最高の賞金を獲得した18歳の青年ラムは、その夜、不正を疑われ、警察で尋問を受けることになる。彼を救いに来た女性弁護士の前で、ラムは問題の答えと密接に関わりあった自分の生い立ちと過酷な人生を語り始める、という物語である。

映画『スラムドッグ$ミリオネア』は、実は原作通りに映画化されたのではない。原作者ヴィカス・スワラップの本業は外交官で、スラム出身の少年が逆境にめげず、たくましく生き抜く姿に希望をたくしつつ、貧窮、差別、虐待、売春といったインドが抱える社会問題を描き出すのが目的だった。が、プロデューサーは、それでは映画にするには地味すぎると思ったのだろう。悪役と恋人を登場させ、いかにもハリウッドの娯楽映画っぽい脚色を施している(主人公の名前がラムからジャマールに変わり、クイズの賞金も2千万ルピー=約3600万円と、現実に即したものになった)。

原作でも物語の進行は弁護士の前で過去を回想するというフラッシュバック形式になっていたが、映画は、正義漢の女性弁護士をなくす代わりに司会者を悪役に仕立て、全問正解まであと1問というところで警察に連行される夜から物語を始めた。したがって、警察での尋問(現在)、クイズ番組の進行(近い過去)、主人公ジャマールの生い立ち(過去)の3つの時制が同時進行するというさらに複雑なフラッシュバックになっている。が、それを少しも混乱させず、さらっと見せてしまうところが、さすがダニー・ボイルである。

もう1つ忘れてならないのが、ムンバイという活気あふれる町と、そこに生きる人々の魅力だ。それを、スタイリッシュな映像とシャープな編集で、都会的な感覚の映画に仕上げたのはダニー・ボイルの手腕だが、それを支えたのがインド映画の底力だと私は思う。

インドが隠れた映画大国であることは最近日本でも知られるようになってきた。宗教的な禁忌や習慣が根強く残るイスラム諸国、東南アジアからアフリカ大陸にかけての広大な地域をマーケットとして発展してきたインド映画は、製作本数でいえば、アメリカを遙かに引き離して実質的に世界一の地位にある。そして、『スラムドッグ$ミリオネア』の舞台であるムンバイ―旧名ボンベイ―こそ、インドの映画産業最大の中心地、インドのハリウッドことボリウッドの街なのである。

『スラムドッグ$ミリオネア』は、そんなボリウッドの豊富で優秀な人材に支えられて独特の輝きを放ち、2008年のアカデミー賞を制し、映画の成功によってボリウッドの実力を世界中に知らしめた。ボリウッド映画の底力が垣間見られるラストの集団のダンスシーンは必見だ(撮影に使われたのは、世界遺産に登録されているムンバイのチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅)。エンドロールまで楽しさが詰まった、最高のエンターテインメントをお見逃しなく。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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