映画の処方箋

Vol.014

『アダプテーション』

嘘と真実の間にある、薄くて厚い壁

スパイク・ジョーンズを初めて見たのは、初監督作『マルコヴィッチの穴』が出品された1999年のヴェネチア映画祭だった。すでにビースティ・ボーイズやビョークのMTVを何本も監督して、その筋では有名な人だったらしいが、その筋にうとい私には、ただの新人監督という認識しかなかった。記者会見場に現れた彼は、“今どき感”漂うテクノカット(死語、その昔なら坊ちゃん刈り)で、会見半ばでデジカメを取り出すと、最前列に座っていた両親と自分の記念写真を撮り始めた。ヴェネチアの記者会見に親を連れてきたのはマット・デイモン以来だったが、会見そっちのけで楽しそうに記念写真を撮る姿はまるで新人類(これも死語)で、そのときに見た『マルコヴィッチの穴』の感想と合わせて、アメリカ映画界にも、こんなヘンテコな監督が生まれてくるようになったんだなと思った。この印象は今に至るまで変わっていない。

次に見たのは、デヴィッド・O・ラッセルの『スリー・キングス』に出演したときで、ジョージ・クルーニー、マーク・ウォールバーグ、アイス・キューブに次ぐ4人目の“キング”を演じていた。このときは役柄もあって、さすがに普通の青年に見えたし、2003年2月に『アダプテーション』を出品したベルリン映画祭の記者会見でも普通に見えたので、映画祭デビューだったヴェネチアの坊ちゃんスタイルが“扮装”だったのだと理解した。その頃には、ソフィア・コッポラとの結婚や、プロデューサーを務めたミシェル・ゴンドリーの『ヒューマンネイチュア』などの情報が入ってきており、彼とチャーリー・カウフマンを中心とする映画工房のようなものの存在が私にも明らかになっていた。

チャーリー・カウフマンの脚本には、カウフマン印ともいうべき強烈な個性がある。テーマは常に人間のアイデンティティと多面性だ。例えば、他人が俳優ジョン・マルコヴィッチ(ただし、当の本人はジョン・G・マルコヴィッチだが、映画に登場するのはジョン・H・マルコヴィッチ)の脳に入り込んで、マルコヴィッチ体験をする『マルコヴィッチの穴』、実在のテレビの人気司会者チャック・バリスが、実はCIAの殺し屋だったという虚実半ばの自伝を映画化したジョージ・クルーニーの監督デビュー作『コンフェッション』など。それほど強烈なカウフマン印の脚本だが、映画化する監督によって微妙に違ったテイストになるのが面白い。私が特に好きなのがスパイク・ジョーンズによる映画化で(切れ味がいい)、なかでも『アダプテーション』が一番好きだ。

最新作の『脳内ニューヨーク』に至るまで、カウフマンの脚本は発想の斬新さで群を抜いているが、『アダプテーション』もまた、一見地味そうながら、映画史上1、2を争う奇想天外な映画であると私は思う。主人公はチャーリー・カウフマン自身(演じるのはニコラス・ケイジ)。映画の中心は、スーザン・オーリアンのベストセラー・ノンフィクション<蘭に魅せられた男>の脚色を、美人プロデューサー(ティルダ・スウィントン)に頼まれたチャーリー・カウフマンの苦悩の物語である。脚本が書けないばかりでなく、デブで禿げで女にもてないことが悩みの種のチャーリーには、外見はそっくりだが性格が正反対な双子の兄ドナルド(ニコラス・ケイジ)がいて、チャーリーの苦悩をよそに、脚本講座に通って、あっさり脚本家デビューを果たしてしまう。この主筋に、彼が脚色する予定の<蘭に魅せられた男>の物語、著者スーザン・オーリアン(メリル・ストリープ)と蘭コレクターのジョン・ラロシュ(クリス・クーパー)のドキュメンタリーが絡まってくる。自分に自信がなく、人生の適応(アダプテーション)に苦しみながら、<蘭に魅せられた男>を脚色(アダプテーション)しようとするチャーリー・カウフマンのフィクションと、原作そのまま(に見える)のドキュメンタリーという2つの筋が、虚実ないまぜなまま、裏と表をひっくり返すように進んでいき、ふと気づくと、フィクションがドキュメンタリーに入り込み、ドキュメンタリーがフィクションに入り込んでいるのである。

映画のフィクション性とは何か、ドキュメンタリー性とは何か。2つの間にある壁に意味があるのか。壁が取り払われたら何が生まれるのか。脚本とは何か、脚色とは? 何度見てもいろんなことを考えさせられる、笑える快作である。ニコラス・ケイジとメリル・ストリープはもちろん、助演男優賞を総なめにしたクリス・クーパーの怪演は必見だ。

ドナルド(架空)とチャーリー(実在)の二人のカウフマンを、揃って脚本賞にノミネートしたアカデミー賞、ニューヨーク批評家協会賞、ゴールデン・グローブ賞は、さすがにプロが選ぶだけあって、洒落がわかっている。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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