映画の処方箋

Vol.005

『007/ロシアより愛をこめて』

イギリスにはなぜスパイが多いのか。

コーエン兄弟の新作『バーン・アフター・リーディング』は、アメリカ人はお金のためなら、あっさり国を売ってしまう人種であることを描いた一種のスパイ映画である。アル中を理由にCIAをクビになり、回顧録を書いて儲けようとするオズボーン・コックス(ジョン・マルコビッチ)、離婚を有利に進めようと回顧録の入ったディスクを盗み出し、こっそりコピーする妻ケイティ(ティルダ・スウィントン)、フィットネスセンターのロッカーに置き忘れられたディスクのコピーを発見し、機密情報だと思い込む筋肉バカのインストラクター、チャド(ブラッド・ピット)、ディスクをネタに念願の四重整形の費用を稼ぎたい同僚のリンダ(フランシス・マクダーマンド)、ケイティとダブル不倫しつつ、さらに出会い系サイトを利用してリンダとも浮気するセックス中毒の財務省の役人ハリー(ジョージ・クルーニー)。彼らは皆、何をしてでも自分の欲望を達成したい、アメリカ型資本主義の申し子である。チャドとリンダが、オズボーンを強請るのに失敗すると、あっさりディスクをロシア大使館に持ち込んでしまうのは、愛国心より資本(お金)が第一だからだ。彼らに比べれば、祖国であれ、恋人であれ、自分の愛するもののために命を賭けて闘うスパイ、007ことジェームズ・ボンドが正直な人に見えてくる。特にダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドは、表情は強面だが、『007/カジノ・ロワイヤル』から『007/慰めの報酬』まで2作にわたって恋人の死を引きずっていく一途な男である。

アメリカにはなぜかCIA出身のスパイ小説家が見当たらない(いたとしても私は寡聞にして知らない)が、イギリスには情報機関出身のスパイ小説家がたくさんいる。国民性とだけでは片づけられない事情があるのだろうか。もちろん情報戦争の始まりが第一次大戦だったことも大きな理由の一つだろう。サマセット・モーム、グレアム・グリーン、ジョン・ル・カレなど、そうそうたる文豪たちが皆、情報機関で働いていた経験を持ち、スパイ小説を書いている。007の生みの親、イアン・フレミングもその一人である。

聞くところによると、誰よりもスパイ活動に深くかかわったのはフレミングであるらしいが、彼が創造したジェームズ・ボンドは、モームのアシェンデンやル・カレのジョージ・スマイリーと比べ、ぐっと現実味が薄い。それは、フレミングの死後、原作の縛りがなくなると、プロデューサーのアルバート・ブロッコリが、地味なスパイ路線より興行成績のいい、派手なアクションを満載した娯楽拡大路線に突っ走っていったせいだろう。特にロジャー・ムーア版ボンドはスパイというよりスーパーマンに近くなっているが、そんなバブリーなボンド映画も私は嫌いではない。

007シリーズはボンドを演じる俳優のキャラクターによってテイストが異なるので、いろんな楽しみ方ができるが、シリーズで最も好きな1本をあげろと言われたら、私は間違いなく初代ショーン・コネリーの『007/ロシアより愛をこめて』を選ぶ。シリーズ中最もよく出来た作品であることはもちろんだ(特に列車内でのロバート・ショーとの対決はシリーズ屈指の名場面で、何度見ても面白い)が、若きコネリーの精悍な男の色気と、“マクガフィン”として暗号解読機エニグマが使われていたり、渋い俳優が登場したり、私の興味を惹く要素が多々あるからだ。

エニグマとは第二次大戦中にドイツ軍が作戦を伝達する際に使用したタイプライター型の暗号機で、開発当時は絶対に解読不可能と言われていた。ダニエラ・ビアンキが亡命と引き換えにイギリスに持ち出すと約束したものが、まさにエニグマで、クライマックスでコネリーとビアンキが手に手をとって逃げるときに、コネリーがもう片方の手にしっかり掴んでいる茶色い箱のようなものがそれである。

実は、エニグマは第二次大戦中にポーランド人によって解読されてしまう。イギリスは彼を中心に解読機関を作ってドイツ軍の作戦司令を読み解いていく。この間の史実はマイケル・アプテッドが『エニグマ』として映画化しているから見てみると面白いだろう。ただし映画のエニグマは脇役で、機関で働く人々の恋愛模様が主役になっているのが、暗号好きにとってはちょっと残念である。

007シリーズは悪役のキャスティングが面白いのだが、『007/ロシアより愛をこめて』ではアッと驚くような人物が悪役を演じている。ダニエラ・ビアンキの直属の上司でスペクターのエージェント、ローザを毒々しく演じたロッテ・レーニャである。レーニャの名は今では忘れられているが、作曲家クルト・ワイルの奥さんで、戦前のドイツでは知らない人はいない大女優だった。ナチが政権をとると2人は離婚し、別々にアメリカに亡命した。そして現地で再会すると、再び結婚、生涯を添い遂げている。ワイルの死後、レーニャは夫の代表作で自分もオリジナル・キャストだった<三文オペラ>の英語版をブロードウェイで上演し、トニー賞を受賞した。靴に隠したナイフで執拗にコネリーを狙うレーニャの足蹴りには、こんな過去が隠されているのだ。

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ライター 斎藤敦子のプロフィール

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