映画の処方箋

Vol.222

『さざなみ』

男と女を隔てる深い闇。

 老境を迎えた夫婦の前に、夫の恋人が若い姿のまま、過去から生々しく立ち現れる。そのとき、夫は、妻は、これまでの人生をどのように振り返り、どのように互いと向き合うだろうか。英国の新鋭アンドリュー・ヘイの『さざなみ』は、男と女の間にある、根本的な隔たりを鋭く突いて、2015年のベルリン国際映画祭で男女優賞をダブル受賞し、シャーロット・ランプリングが同年度アカデミー賞女優賞にノミネートされた、ちょっと怖い映画である。

 結婚45周年のパーティを週末に控えた月曜の朝、ケイト(シャーロット・ランプリング)が犬の散歩から戻ると、夫のジェフ(トム・コートネイ)宛にドイツ語の手紙が届いていた。実はジェフには、ケイトと交際する前にカーチャという恋人がいて、スイスのアルプスを一緒に旅した際に崖から落ちて行方不明になっていた。その彼女の遺体が、氷河が解けて見つかったという手紙だった。ケイトは教師、ジェフは労働組合の闘士だったが、今は二人とも引退して、自然に囲まれた家で静かに暮らしている。長い間仲むつまじく過ごしてきた夫婦の前に、50年間凍結された夫の恋人が氷の中から幻のように現れたことによって、ケイトの心に不審のさざなみがザワザワと立ち始める…。

 監督のアンドリュー・ヘイは73年英国ノース・ヨークシャー州ハロゲート生まれ。ロサンゼルスの映画学校で学び、プロデューサーのイスマイル・マーチャントの助手として映画業界に入った。09年、ロンドンでエスコート・ボーイをするゲイのギリシャ人の青春を、わずか5,000ポンドで撮った自主映画『ギリシャ人ピート』で長編映画デビュー。11年にやはりゲイの青年の恋愛を低予算で撮った『ウィークエンド』が世界各国の映画祭で上映されて注目を集めた。『さざなみ』は3作目の長編。他にHBO製作(日本ではHuluで配信)の<ルッキング>シリーズで製作総指揮を務めている。

 ケイト役のシャーロット・ランプリングは46年英国エセックス州スターマー生まれ。父親はオリンピック金メダリストでNATOの指揮官を務めた軍人、母親は画家。フランスとイギリスで教育を受け、モデルを経て、65年リチャード・レスターの『ナック』で映画デビュー。ランプリングの名を決定的に有名にしたのは、74年、ダーク・ボガード演じる元親衛隊将校と禁断の愛に落ちるユダヤ人少女を演じたリリアーナ・カヴァーニの『愛の嵐』だった。以後、ミステリアスな美貌と語学力を生かして国際的に活躍。87年には大島渚の『マックス、モン・アムール』で、猿と恋に落ちる人妻という難役をさらりと演じてみせた。フランソワ・オゾン、ラース・フォン・トリアーといった癖のある監督に愛される“伝説”の大女優である。

 ジェフ役のトム・コートネイは37年英国ヨークシャー州キングストン=アポン=フル生まれ。ロンドンの王立演劇学校で演技を学び、舞台俳優としてキャリアをスタート。フランスのヌーヴェル・ヴァーグと並んで50年代から60年代にかけて英国映画界を席巻したブリティッシュ・ニューウェーヴの代表作、トニー・リチャードソンの『長距離ランナーの孤独』で主演を務め、注目された。以後、どんな役でも演じられる演技巧者として様々な映画に出演するイギリスを代表する名優である。米国アカデミー賞には65年に『ドクトル・ジバゴ』で助演男優賞、83年に『ドレッサー』で主演男優賞と2度ノミネートされた。

 映画の見どころは、二人の名優の名演技にある。夫の一挙手一投足に敏感に反応する妻と、妻の様子などまるでお構いなしに、無邪気に古い恋の思い出に浸る夫。ロマンティストの男とリアリストの女の間にある、埋められない溝を見事に浮き彫りにする脚本もまた素晴らしい。夫の留守中、屋根裏でカーチャの写真を発見する場面など、まさにホラーとしか言いようがなく、結婚45周年パーティで二人がプラターズの名曲<煙が目にしみる>を踊るクライマックスまで、一瞬も目が離せない、しびれるほど辛口の人間喜劇である。

ライター 斎藤敦子のプロフィール

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