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「マトリックス」

2013/12/26 更新

SF映画のヴィジョンを塗り替えた革新的な傑作。

 映画『エイリアン』が“異邦人”という本来の意味を“宇宙の異様な怪物”に変えてしまったように、『マトリックス』は“母体”という意味を、バーチャル世界のイメージ(いわば、空中を飛んでいく弾丸をキアヌ・リーヴスが長いコートを翻しながらのけぞって避けるイメージ)に変えてしまった映画である。そんな世界観を変えた『マトリックス』だが(さすがに携帯電話やパソコンに古さを感じるものの)、今見ても映画の面白さは少しも古びていない。いかにウォシャウスキー兄弟のイマジネーションが優れていたかということだ。

 ストーリーは深いがシンプル。主人公のトーマス・アンダーソン(キアヌ・リーヴス)は大手ソフト会社に勤めるプログラマー。ある夜、コンピューターの画面に“起きろ ネオ”、“マトリックスが見ている”、“白ウサギについて行け”というメッセージが表示される。そのとき現れた肩に白ウサギの刺青をしている女についていくと、トリニティー(キャリー=アン・モス)という謎の美女に出会い、警告を受ける。実はトーマスはネオというハンドルネームを持つハッカーだった。 翌日から彼の周囲に不思議なことが起こり始め、サングラスを掛けた男たちに追われる身となる。突然現れたトリニティーの導きで、モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)に出会い、驚くべき事実を打ち明けられる。実は世界は21世紀の初めに滅び、今の世界はコンピューターが作り上げた仮想世界であり、現実では人間はコンピューターに栽培され、動力源に利用されるだけの存在に落ちぶれているのだと。こうしてネオは、モーフィアスの仲間に加わり、人類を救うためにコンピューター支配を打ち破る闘いに乗り出す。

 『マトリックス』の世界観はフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの<シミュラークルとシミュレーション>から影響を受けているという。またウィリアム・ギブソンの小説<ニューロマンサー>や、大友克洋のアニメ『AKIRA』、押井守の『攻殻機動隊/GHOST IN THE SHELL』、カンフー・アクションはブルース・リーやジェット・リー(武術指導はユエン・ウーピン)、二丁拳銃のガンファイトはジョン・ウーなどなどの影響が多々指摘されている。 が、『マトリックス』が素晴らしいのは、それらの要素を統合して、まったく新しいSF映画のヴィジョンを提示したことにある。

 主演はキアヌ・リーヴス、当時35歳。中国系の混じるコスモポリタンな顔立ちと中性的な雰囲気がこれほど『マトリックス』の世界にはまる俳優はいないだろう。ローレンス・フィッシュバーンやキャリー=アン・モスは別の俳優が演じられても、キアヌのネオだけは他の俳優を想像できない。そしてもう一人、不気味なエージェント・スミスを演じて強烈な印象を残したのがヒューゴ・ウィービングだ。 彼はこの後『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズでエルロンドを演じるのだが、ハリウッド映画では『Vフォー・ヴェンデッタ』の仮面の男Vや『トランスフォーマー』のメガトロン(声)など、なぜか顔の印象が残らない役ばかりを演じている。

 と、ここまでウォシャウスキー兄弟と書いてきたが、兄のラリーは2008年に性適合手術を受けて女性のラナに生まれ変わり、本名もローレンスからローレンカに変更された。なので、現在はラナ&アンディ・ウォシャウスキー姉弟と表記しなければならない。トランスジェンダーの問題は映画界でも珍しくないが、今回改めて『マトリックス』を見直してみて、ネオになる前のトーマスが感じる“目覚めても夢の中にいるような、本当の自分でない感覚”とは、ラリー(ラナ)の皮膚感覚であったのかもしれないことに思い至った。 作り手側にそんな切実な痛みがあったからこそ、バーチャルを描いてバーチャルではない、ネオの本当の苦しみが画面から感じとれるのではないだろうか。これもまた『マトリックス』が普通の映画を超えた映画であることの証拠である。

ライター:齋藤敦子
映画評論家。パリで映画編集を学んだ。フランス映画社宣伝部から90年にフリーとなる。 G・ノエ、グリーナウェイの諸作品を字幕翻訳。最新作は「麦の穂をゆらす風」。 「ピアノ・レッスン」(新潮文庫)「奇跡の海」(幻冬舎文庫) 「パリ快楽都市の誘惑」(清流出版)などの翻訳書も。 当サイトの「映画の処方箋」でも隔週連載中。